Saturday, May 27, 2006

Abstract-19; Shquip ? ska problem

5/25 アルバニア語レッスン
 今日は公図セクション部長とミーティング。最新の公図は1999年セルビア人が難民としてコソボを離れる際に、プランナーがデータを持ち去ってしまったと説明される。事実関係は不明だが、1970年代の公図に修正を加えながら使用していることは確かである。公図は日本のものとほとんど同じ。実際には、2003年にスイスの支援を受けて航空写真が撮影され、それがAutophotoで見ることができるようになっている。これにHABITATの過去のプロジェクトで公図のデジタル化が行われ、航空写真と公図がパソコン上で重ねて表示できるようになっている。日本の公図事情について説明をする。
 また、実際に道路があるのに分筆されていない土地もある、これも日本の私道と同じく、公共物として扱われている。
 その後財政部長とミーティング。来年度の予算編成について確認。予算は財政部局が中心となり各部局部長に必要予算を打診。これを受けて予算案を作成しCEOと議論。予算案の説明会が開催され市民がその場に参加して意見を述べることができる。最終的には議会と市長により可決されるとのこと。来年度の都市計画関連予算が計上されているのを確認する。
 更にコミュニティ関連部長とミーティング。エスニックマイノリティ(少数民族)に対する対応。特にセルビア人、ロマ(ジプシー)の居住対策や意見聴取について協力を得る。
 現在、帰還プロジェクトとして、セルビア人村落の住宅再建が進められている。スタッフが皆アルバニア系市民なので、その他の民族への対応は非常に重要な課題となる。
  この後に、初のアルバニア語レッスン。
 教師はなんとほとんど英語を話さない。というか話せない?
 かなり上級クラスの授業、これは大変、。エリックと二人で参加する。その他UNDPのスタッフ数名が参加している。ま、やってみましょう、。
 1時間の授業、エリックと二人、終わったらビール飲んで頭を休めずにはいられない。
 いやー、大変だと大笑いする。
 ビールを飲んでいたカフェでなかなか良いスパニッシュブルースが流れている。エリックはバレンシアで建築を学んでいたことがあるので、これがESTOPAだと紹介してくれる。
と盛り上がっていると、店員が「二人ともスペイン出身?」とにこやかにテーブルに来る。違いますよ、。
 「気に入った?なんならこれコピーしてあげるよ。USB持ってる?」
 違法コピー大国。カフェで無料でESTOPAゲット。

5/26 UNMIKでセキュリティブリーフィング
 コソボ入りして2ヶ月が経とうとする今頃やっとブリーフィングを受けることになる。もう安全だしどっちでもいいんだけどな、と思いつつも安全のため参加。
 各国際機関で働き始めた人が参加。昨年夏にUNMIK自動車が燃やされた、など、危険な情報を得る。ブリーフィング受けない方がよかったんじゃない?
 実際一番危険なのはUNMIKの本部じゃないか?外で普通に暮らしているには問題はないというのが皆の意見。
 とにかく注意するに越したことはない。
 ローカルスタッフのアイダに説明すると「国連のミッションエリアで世界一安全だと思うけど?危険感じる?」。 まぁとにかく気をつけましょう。
 来る前はとても人を呼べるとは思わなかったけれど、遊びに来たい人がいれば、寝る場所は提供できます。我がアパートには国際スタッフも良く泊まりに来ているので宿泊設備は充実しているので。

 午後はフェリザイへ。来週HABITATオールプランニングチームが来るので、プレゼンテーション用の資料作成のため現地調査にムスタファと出掛ける。運転手付きの公用車を用意されるのはよいが、運転手は早く帰りたいらしく急ぐので少々苦笑い。

Abstract-18; Meeting with CEO

5/22 ディレクターミーティング
 毎週月曜日、CEOが中心となり各部局の部長が集まりミーティングが行われる。総勢20名程度。
 今回はHABITATの活動目的、今までの取り組み状況、自治体のプランニングチーム(Municipal Planning Team; MPT)の必要性をパワーポイントを使いプレゼンテーション。
 CEOがMPTの必要性を強調、良い計画を作れるのは市民、その意向を汲み上げてプランを作る必要があると、各部長に力説する。MPTの設置とその方法について議論がなされる。
 フェリザイオフィスのデスクに戻る。いつも掃除してくれるおばさんが、今日はいつもに増してノリが良い。キーボードまで拭いてくれるのはいいんだけれど、そんなに拭かれると、パソコンの書類にどんどん謎の文字が書き込まれていく、。 ファイルは消さないで、。
 
 5/23 CEOミーティング+Public Transportに関する特別部会
スーパーバイザーのフランク、交通計画専門家のグンナーをCEOに紹介する。フェリザイでHABITATチームミーティングを行うこと、その際にプランニングの現状のプレゼンテーションをすることを依頼する。快諾。
 午後は公共交通に関する特別部会。現在フェリザイ市は中心部に鉄道駅(数本/日)とバスセンターがあるがその今後のあり方について議論が必要と判断し、部会を招集する。
交通警察、中央政府交通担当者、市都市計画関連部局とHABITATで会議を行う。コソボ鉄道、バス民間会社については声をかけたものの参加なし。次回は政府への要請をする必要がありそうである。
 旧社会主義が崩壊し、資本主義への途を歩みつつある現在、旧来は国有企業であったものがバラバラと民営化されている。バスもその一部であるが、このため運行スケジュール管理も民間任せとなっている。現在、バスセンターを郊外へ移転するという案があるが、公共交通を市街地から追い出して一般交通を容認するというのは、公共交通システムとして問題がある。
 鉄道駅とバスセンターの連携が可能であれば、将来的に市のメリットとなる。鉄道バス会社の連携、市によるペデストリアンデッキや道路のアンダーパスについて議論。
 また、すべての交通が市中心部に向かっており、バイパスや環状道路が整備されていない。今後の交通ネットワークのあり方をどうすべきか。
 課題山積、である。

 5/24  UNDP・HABITAT ミーティング
 午前中はUNDPでミーティング。現状においてサポート体制の不備がある部分について提案するとともに、解決策について検討。未だUN自動車が支給されない、新しいパソコンが届かない。セキュリティブリーフィングが行われていない、給与振り込みを自国の口座にできないか、などなど。
 とにかく段取りが悪いことと、手配から実現までに時間がかかる。気が長くなればいいが、時々ははっきりと文句をいわないと物事が進まない。
 アルバニア語の語学レッスンが受けられないかと相談する。UNDPスタッフと共同で週2回のクラスに参加できることになる。明日から早速参加することにする。
 午後はHABITATでミーティング。モザンビーク出身のスタッフが帰国することになったため、送別会をガルミアパークで行う。1999年、NATO空爆後から現地に入っているスタッフ、かれこれコソボに6年いたことになる。当時はとにかく何もなくて大変だったようである。皆でコソボの写真集に寄せ書きをかく。個人的には彼女はけがでしばらくコソボを離れていたため、会ったのはとても短い期間だが、なんともアフリカらしい明るい人柄。そのうちモザンビークに招待してくれるとか。

Abstract-17; Trekking in Peja Mountain

5/20 焼き魚定食
 ダルダニア地域は新興住宅地で高層住宅も多い地域である。そのため周辺には大きなスーパーなどが整っている。今日は久々に魚が食べたくなったので、バーベキューセットを購入することに決める。ちょっとしたグリルが9ユーロ、炭が5キロぐらいで3ユーロ、着火材少々。
 魚はプリシュティナで唯一の魚専門店に行く。基本的にはキロ単位で価格表示がある、平均1匹300グラムと考えれば間違いない。お店の人とグリルでおいしい魚を確認、BORAD?という鯛のような魚をチョイス、2匹購入で5ユーロ。内臓をその場で取ってもらう。
 アパートの小さなベランダにグリルをセッティングして調理。ついでにご飯を炊く、味噌汁をつくる。おモンテネグロ米は日本米と似た品種でふっくらしている。
 さすがに2匹は多いが、焼きながらビールのみながらのんびりと土曜の夜を過ごす。

5/21 ペーヤマウンテンへ
 正式な渓谷の名前を思い出せない。ペーヤ市街からタクシーで10分程のところにある渓谷をトレッキングしないか?とのコバの誘いに、国際スタッフがペーヤに集合する。
 ローカルスタッフとともに休日を過ごす、ということは今のところ公式行事でない限りない。ローカルスタッフはもちろん家族も子供もいるので、休日は家族サービス。
 ペーヤバスステーション近くのカフェ集合、シャムスが遅れる。今日の行程について、17時には帰りのバスが来るのでそれまでに戻ること、帰りのタクシー、迎えにきてもらうよう頼むことを決める。
 集合時間が10時。お昼は道中になるので、ランチにサンドウィッチを購入。水は既に確保済み。
 タクシーの運転手が英語もドイツ語も話せない。休日なので正規のメーター付きタクシーがいない、価格交渉難航。帰りもなんとか迎えに来てくれそう。
 渓谷入り口にレストラン、川沿いに山を歩く。今回のコースは途中から山中になり川や景色があまり見えない、歩きながら話しながら、写真を撮ったり、適当にランチ。山の間から見えるペーヤ市の市街はとてもよい景色。
 自然の山羊がいるようで、あちらこちらにフンがある。
 山のかなり上まで来ると景色が開ける。まだ名残雪がある。雪解け水に勢いのある小川、雪崩の跡が残る山肌、木がなぎ倒されている。
 さらに進むと、なんと雪解け水で道が冠水、先に進めない。自然そのものがそこにある、という風景を楽しむ。良い時間なので山を降りてペーヤビールで一息。
 休日らしい休日を満喫する。18時過ぎにはプリシュティナに戻る。

 この日、モンテネグロの独立投票が行われた。目標の55%をわずかに超える57%で独立が決まる
6年間の猶予期間を経ているため、緩やかに独立が進むことを祈る。今のところ大きな混乱はないが、地域境界の警備はかなり厳しくなっているようである。またこれがコソボ独立に与える影響も大きいと思われる。

Abstract-16; Brokeback Mountain

5/15 OSCEで映画鑑賞
 前にも少し書いたが、コソボでは正規の映画配給・上映が行われていない。映画館がプリシュティナにもあるが、そこで上映されているのは、隣国の映画館で上映されたのを館内で盗撮したものが堂々と上映されている。画面がずれる、ゆがんでいる、音声が悪い。
ちなみに一般に販売されているのも同様のコピー。ダヴィンチコードも早々に売っていました、2ユーロ。
 まともな映画はマケドニアスコピエに行くか、国連職員であればUNMIKかOSCEで平日ほぼ毎日上映されている映画を観ることができる。
 UNMIK等で上映されるものは最新の映画で2ユーロ。
 今日はフランクから電話あり、映画行かない?とのこと。どんな内容か聴いたら「カウボーイがホモになる映画、いやちょっといいかた悪いけど、去年の映画の中ではぴか一かもしれない」とのこと。
 マウンテンバイクで市街、OSCEビルへ。映画のタイトルはブロークバックマウンテン、確か日本も同じタイトルだったと思う。二人の男が山で羊の放牧、一冬を越える間の出来事。愛情と現実、人間のさまざまな割り切れない感情がとても心に響きます。
 フランクと二人で同性愛の映画、その後ビールを飲んで、ベルギーと日本の同性愛の現状について語る。日本でもある程度認知されてきているが、まだやはりカミングアウトは難しいと思うと説明。
 ベルギーでは法律上結婚は可能であるとか。
 良い映画です。ちょっと過激だなとも思いますが。
http://www.brokebackmountainmovie.com/

 5/16 ワークプラン作成
 自治体のMunicipal Development Plan(MDP) ,Urban Development Plan(UDP)策定のスケジュールを策定する。やることが多くてため息がでる。各自治体毎に状況も異なるので進め方も違うが、資料不足、情報不足を少しずつ補う必要がある。


 5/17 スタッフミーティング(本部)
 朝マウンテンバイクでプリシュティナのオフィスへ。各自治体のプロジェクト進捗状況、環境、自治体スタッフの能力などの確認が行われる。
 ミトロビッツァは相変わらずオフィスも未定のまま、プリズレンも自治体の反応が悪い。ジャコバは少しずつ動き始めた感あり、ペーヤはなんとか市民の意見を集めてプランに反映させるためのワークショップやフォーラムを企画。ジランは会議会議の毎日。
 フェリザイはというと、オフィスは整ってきている。担当の1人が能力が高く常に我々をフォローしてくれているが、プランニングチームはまだできていない。我々が自治体入りする前に組織されたプランニングユニットは活動休止中。各部局の部長に状況確認が終わりつつある。
 来週はCEO(Chief Executive Officer;自治体トップ、助役のこと)とミーティングをセッティングしプランニングチームの結成を依頼する。
 また、唯一鉄道が通っている街で、道路の問題もあるので交通のプロであるグンナーやその他のスタッフも加わり公共交通の特別ミーティングをフェリザイで設定することに決める。

 5/18 Spatial Planning of Kosovo の一般公開
 フェリザイ市の青少年センターでコソボ広域都市計画の一般公開が始まった。先日テレビニュースで取り上げられていたが、今日に限って言えば来ているのはフェリザイ自治体職員、近隣自治体職員のみである。それでも自治体職員でさえ中央政府のプランニングを知る重要な機会である。
 もっと良い場所があればよいのに、と思う。
 http://www.ks-gov.net/mmph/IPH/plani_hap.htm
 午後、人口統計についてのミーティングに参加、ドイツのコンサルタントINTECHが参加しているとのこと。コソボにはINTECHが中心となり4-5社の各部門専門のコンサルタント会社がベンチャーを組んで委託を受けている。
 今後の都市エリアを決定するために人口推計を行うが、どのデータを採用すべきか難しい。すべてのデータにかなり格差があり、OSCE調査、EU調査、UNMIK調査、自治体データなどなど、どれを信頼してよいか判断が必要となる。
 今日はドイツから1名、プリシュティナ事務所のローカルスタッフが2名参加。自治体が技術支援をするコンサルの意見を鵜呑みにしないで、現状に則したプランを提案できるよう、両者の間に入り、提案をしたり、調整をしたり。調査を依頼したりこちらで調査したりと、さまざまなスタンスで対応が求められるが、とにかくネットワークをつないで調整する仕組みつくりにまずはつとめる。
 会議後ドイツのプランナーと話をしたが、やっぱり話していて楽しい。

 5/19 事前にCEO訪問
 来週部長が集まるミーティングにCEOも参加しているのでその前でHABITATの役割とプランニングチームの必要性についてプレゼンする。事前にご挨拶。
 自治体の状況、部長たちが座っているだけで仕事をしないなど、辛らつな発言もある。しかしCEO自体は今回の我々の参加を歓迎。多忙ななか快く時間を作ってくれた。
 意外と若くて機動力のある人物、という印象。

Abstract-15; Ready to Worldcup in Germany

5/13 久々の休日
 まったく予定のない休日から1ヶ月遠ざかっていた。朝からダラダラと過ごす。しかし落ち着きない性分のため、洗濯を始めたら掃除などなど部屋を片づけ始める。
 大家のファーリさんが掃除もしてくれると言っていたのだが、常に誰かが部屋に入っているというのは落ち着かない。大家さんは気さくでやさしい人で、このアパートに決めた理由のひとつは彼の人柄にある。
 私のノートパソコン、VAIOの最新機種を購入してきたのに既にモニタが映らなくなる。外部モニタの中古を購入したいからと相談するとお店を案内してくれ、購入した中古のモニタを抱えて部屋まで運んでくれる。自分でやるからといっても、OKといってきかない。日本の賃貸大家とは大違い。
 ネットが開通してから、ワールドカップのオフィシャルページをチェック。チケットが販売になったら買おうと、チャレンジ。

  以下の試合を観戦することに決まる。
  6/16(金) セルビアモンテネグロ 対 アルゼンチン
  6/17(土) チェコ 対 ガーナ
  6/18(日) 日本 対 クロアチア


 セルビアモンテネグロは、コソボのローカルスタッフが聞いたら即倒するだろう、セルビアとの溝は深い。しかしコソボもこの国の一部であることは事実。旧ユーゴスラビアといえばサッカー大国、本当にタレント揃いであった。旧ユーゴ解体後、そワールドカップ予選通過した2国、セルビアモンテネグロとクロアチア。
 クロアチアは日本と対戦。両チームともに決勝リーグ行きを決めるに等しい試合になる。送別会で研究室の後輩にもらったレプリカユニフォームを着て参戦するか。
 セルビアモンテネグロはモンテネグロの独立決定により最後の試合になるかもしれない。強豪アルゼンチンとの試合も期待できそうである。
 チェコもスロバキアと分かれてから初参戦、ガーナはセルビアモンテネグロ出身の監督、アフリカでは奇跡を起す監督として知られている。戦地ルワンダでも手腕を振るってチームを構築している。

 こうしてヨーロッパ、アフリカ、中南米、中東の国々を考えてみると、なんと紛争の多いことか。世界はまったく平和ではない。こちらのテレビでは日々世界の紛争のニュースが飛び交っている。
 ソマリア、東ティモール、パレスチナ、パキスタンなど、。
 それでも、貧しい国も豊かな国も、世界中がサッカーで競い熱狂する。今年はその一人になれそうです。

 5/14 休日その2
  1994年ワールドカップアメリカ大会へ向けて、あと一歩のところでゴールを許したドーハの悲劇。夜中徹夜で共同住宅の設計図面を描きながら観戦、思わず落胆した。
 1998年フランス大会、日本ワールドカップ予選初通過。多くの日本人がフランスへ強行軍で行くもチケットがないなどトラブル続出。日本は予選にて惨敗、そのときにクロアチアにも負けている。
 日本ワールドカップ初ゴール、中山。
 2002年はワールドカップ日・韓同時開催。日本選手が世界のリーグでプレイするようになる。中田が日本のサッカーを世界に証明する。大会は開催国のため自動的に出場となるが、大健闘で1次リーグを突破、ベスト16入りを果たす。準決勝にまで進んだトルコに惜敗。
 自国開催にもかかわらずチケットがとれない、仕事が忙しい。東京都の地域危険度の調査でとにかく現地を歩き回る。そしてどうしても見たい試合は大画面のあるお店をチェックして休憩しながら観戦。イングランド対ブラジルの試合の興奮が忘れられない。
 
 こうして思い出すと、見に行きたいと思ってから12年、初観戦。そう思い出すと感慨深い。
 欲をいえばイングランドの試合が見たいが、今回は日程的に難しそう。

 次回開催は南アフリカか、。

Abstract-14; World Heritage in Macedonia

5/9 オフリドでスタッフミーティング
 HABITATチームは日曜夕方プリシュティナ発、木曜午後オフリドを発つスケジュールでRE-TREAT(研修)に来ている。RE-TREATとはどうやらクリスチャンの文化らしく、日本でいう学校の学外研修のようなものらしい。とりあえず、マケドニアのオフリドという湖畔の街のホテルに滞在する。
 湖をはさんで西側がアルバニアになり、国境は湖を通っている。国境警備船が浮かんでいる、ということはない。透明度の非常に高い、穏やかな場所であり、旧市街地が世界遺産に登録されている。
 今日は朝から早速ミーティング。前日はHABITATの歴史や今までの活動についての説明、ジェンダー(男女差別)問題についての議論があったようである。本日は現在のプロジェクトで到達すべき目標と手段について、その確認作業を行う。しかし、議論が詳細に入りすぎてなかなか進まない。
 お昼ご飯、コーヒーブレイクを挟みながら、国際スタッフのプレゼンが行われる。事前に準備のアポが充分なされていないので、内容はむしろ今までの経験と今日までのプロジェクトでのポイントについて話し合われる。
 今日はシャムス、シアン、コバが発表。
 夜は皆で市街へ外出してご飯。フランクとワインを共同注文、ついでにバルカンプレートという肉たっぷりのプレートも共同注文。
 皆で結構ワインを飲む、総勢20人前後のタチの悪い団体と化す。水の入ったグラスを回転させて水かこぼれないようにできるか、と、グラスを振り回す。アルコールランプは?それはやめよう。


5/10 プレゼンテーション
 今日も朝からミーティング、午後は見学、オフリドの南、スヴェティ・ナウムのナウム修道院とオフリド旧市街見学に出かけることにする。
 今日はエリックとフランクと私がプレゼン。
 どんなことを話したか、といえば
 「もともと建築が専門、学部当初はNYのマンハッタンのような建物を設計したかった。ヨーロッパ旅行をした際に、建物自体が最小限の大きさで作られて、外部の半公共空間や道路公園などの公共空間のコンテクストに調和がある。街全体として良い環境が作られていることに感嘆する。
 都市計画が非常に厳密に行われてきている。翻って日本の市街地を見ると、戦後の経済成長優先主義による急激な都市発展、スプロール、経済・政治圧力に都市計画が立ち向かえなかった結果、市街地には調和がなく、カオス的状況に陥っている。効率性重視によりコンクリートで固められた都市河川、空間不足による住宅狭小化、そのための半公共空間、公共空間の決定的不足。
 都市計画はシリアスな状況にあるが、経済圧力の安定化、参加のプランニングの一般化、市民による都市計画の認知、効率性から持続可能な都市へのシフトなど、状況は変わりつつある。しかし、既成市街地化してしまった現状でできることは限られている。
 コソボは今まさに戦後下の開発ブームにあり、市街地拡張、都市計画の欠如と規模は異なれどもわれわれが過去に経験した状況にある。EUのプランニングを取り入れていくならば、開発圧力へのエンカウンターとして環境・自然・サスティナブルを背景としたプランニングをすべきである。等々、、。」

 午後は湖畔の修道院。とにかく湖とその周辺の自然がとても静かで、美しい。皆でボートに乗りマケドニア語のガイドを通訳のフラマーが英語に翻訳。日本人顔負けの勢いで写真撮影大会。
 夕方からは旧市街を散策、オーソドックスがロシア方面に広がったのはここで修行した者が布教したという、由緒正しい場所とのこと。人と獣が戦うグラディエーターコロシアム跡、湖畔のオーソドックスチャーチが印象的である。バルカン半島の典型的建築様式である2階部分が突出する建物も多い。新しい建物も多くがそのように建てられている。

 5/11 プリシュティナへ(テトボ、ゴスティバ)
 最終日、午前研修を終えて車で帰途。マケドニアには2-4割のアルバニア人が住んでいる。特にコソボとの国境周辺にあるゴスティバやテトボはアルバニア人の街である。
 まずゴスティバに寄る、コソボと同じアルバニアの都市であるが、河川沿いがオープンスペースとなっており、緑豊かに修景されている。なんらかの参考になるだろうと、今後ゴスティバのプランナーとの交流も視野に入れる。
 テトボは情勢が不安定だとされている街である。小さくて古い、美しいモスクが市街地を流れる小川沿いにある。敬虔なムスリム教徒であることで知られているようで、確かに、多くの人々がモスクに出向いていた。
 山を越えコソボ国境へ、公言できない出来事があったことを、記録にとどめておく。

 5/12 フェリザイ復帰
 とにかく先週からずっと外出ばかりしていたので、くたびれている。ある程度仕事の段取りをするが、まぁ今日は、席に座っていることに慣れることにする。昔、「席に座っているのになれる時間も必要、といった横国大ドクターの先輩の言葉を思い出す。

Abstract-13; World Heritage in Montenegro and Croatia

5/4 プリズレンへ
 彼女にコソボ事情を紹介するため、朝バスに乗りプリズレンへ。歴史的市街地の状況、セルビア系市民居住地が焼き討ちにあったままの状況、オードドックス教会が崩壊して鉄条網に囲まれている状況。アルバニア系市民は何もなかったように今日も暮らしている。
 見学を済ませて、プリシュティナに戻る。夜8時にはバスステーションからモンテネグロ・ウルチン行きのバスに乗り、深夜バスの旅にでる。今回の目的地は世界遺産に登録されているクロアチアのドブロヴニク、モンテネグロのコトル。

 5/5 ドブロヴニク
 前回同様早朝にウルチンに到着。前回訪問でバス路線をチェックしてあり、そのままドブロヴニクに行けると把握していたが、予定は未定な国。今日のバスはコトルまでしか行かないそうだ。
 とりあえずバスにのりコトルまで向かう。モンテネグロのアドリア海沿いの風景は非常に美しい。
 コトルへ向かう風景、海沿いから一旦内陸に入り山がちな道を進む。視界が開けて内湾に向かって道が下っていく。内湾を囲むオレンジ色の屋根の市街地。穏やかな水面で、山に囲まれた静かな都市である。
 コトルバスステーションに到着。ドブロヴニクへのバスを探す。バスチケット売り場でバスを訪ねると午後しかないとのこと。
 すると後ろにいた体格の良い老人が、「15分もしたらバスが来る、私も乗っていくよ」と教えてくれる。バスの窓口の係員は自分の会社のバスの時間しか教えてくれないそうだ。なるほど、モンテネグロに来ていつもバスのスケジュールが違うのは、すべての時間を教えてくれないからだと理解する。
 更にチケットは窓口で買うよりもバスに乗って買う方が安いそうとのこと。窓口で手数料を取られる。全く持って不思議な仕組みである。公共交通機関とは言い難い。
 老人はコトルに住んでおり、娘がドブロヴニクにいるとのこと。銀行にいって今日戻るとのこと、我々も戻ってコトルに滞在する予定だったので、話を聞くと、帰りのバスが16時頃にあるらしい。とりあえず往復のチケットを買う。
 バスは適度に送れたものの到着、乗り込んでドブロヴニクに向かう。バスのなかで老人はコトルの街について詳しくレクチャーしてくれる。
 コトルの街、世界遺産に登録された旧市街の北側の山肌に城塞がある。これをライトアップして観光資源を支援したのが日本だということも聞かされる。
 クロアチアの国境を越える、とたんに景色が更に明るくなる。ドブロヴニク、アドリア海沿いの港湾都市で山肌を行くバスから見た景色はとても華やかなリゾート地。思わず、ここに滞在してのんびりするのも良いか、という気持ちになる。 アドリア海の真珠と呼ばれるのも理解できる。ヴェネチアと並ぶ都市国家であった面影を色濃く残している。
 旧市街から離れた場所にあるバスステーションに到着。帰り老人と戻るか悩む。帰るつもりでいるが、と答えて別れる。
 旧市街まで徒歩で向かう、割と距離がある。旧市街は城壁に囲まれたエリアで、紛争の際の戦災により市街地が破壊され一時世界遺産の消滅リスト入りしていた。現在は街並みが見事に修復されている。
 日本を離れて初めてシーフードを食べる。
 確かにクロアチアはヨーロッパ各国からアクセスが良く空港もあるので観光地化している。ゴールデンウイークであるため、日本のツアー客もたくさん訪れている。華やかで綺麗な街並みであるが、少々観光地化しすぎているきらいがある。
 食べられそうな魚、外国人が好きそうな大型魚がいる水族館があった。
 結局コトルに戻ることに決める。
 バスで老人とともに戻る、コトル市街に知人が経営するホテルがあるとのことで、紹介してもらうことにする。世界遺産に登録されている旧市街に入り、コーヒーをごちそうになる。旧市街入り口の小さな石造の時計台、とても可愛らしい。時計台の下に時計店があり、代々その家系が時計台を修復管理しているそうだ。スイスの皇帝の許可状が店の壁に静かに飾られている。
 ホテルマリアに宿泊、日暮れまで時間があるので街を散策、北の山肌の城塞に上る。結局上り下りに1時間半かかる。しかし、景色はとても良い。
 夜は旧市街を出て、内湾沿いのレストランへ。白魚、イカ、白ワインにオリーブを食べる。
 食後は旧市街に戻り、老人がもっとも美味しいケーキを出すと絶賛したお店でケーキにコーヒーを注文。

 5/6 コトル、ブダバ、バール旧市街、ウルチン→プリシュティナへ
 午前中、ホテルで朝食を取り、コトル市街を散策。コンパクトで、建物と建物が有機的に繋がっている。細い路地で街が構成されており、市街地の各所にある小さな広場に繋がる部分は道幅が狭くなっているようである。日本の茶室のように入り口を狭くして内部が広く感じるような仕組みかと感じる。路地がリズムを持ちながら広がったり狭まったりしているため、街並みも魅力的である。
 旧市街を出てバスステーションへ向かう。旧市街城壁の外側にマーケットがあり新鮮な魚や野菜、オリーブなどが売っている。アンコウが結構売られているのは驚きである。
 コトルからブダパへ。セントヘレンに寄り、バール旧市街へ。
 バール旧市街ではすでに夕方、子供たちが狭いスペースでフットボールをしている。興味深そうにこちらを見ているので話し掛ける。6-7人の子供に囲まれる。英語を話せる子供がいて、いろいろ話を聞く。質問攻めにあう。親はコトルに働きに出ているようである。かなりの距離、住み込みかもしれない。 
 いたるところにヤギのフンが落ちていて、静かで、古いオリーブ畑がある山間の村。静かに時間が流れている。
 子供たちに、花の蜜の吸い方を教えてもらった。子供の頃、そんなことした思い出がある、どこの国の子供も同じ、好奇心に満ちた目と楽しそうな笑顔が印象的だった。
 ウルチンに戻りプリシュティナへの夜行バスに乗る、晩御飯は名前がわからないひき肉の入ったパン、結構美味しい。
 
 5/7 プリシュティナ
 朝5時ごろプリシュティナ着、昼まで疲れて眠る。天気は曇り時々小雨。
 部屋の寒さに耐えて生活していたが、暖房を買うべきとの彼女の意見に賛同、郊外のショッピングセンターへでかける。なんでも揃う、コソボにきたときには想像もしなかった。思い切ってヒーターをリビング用と寝室用、計2つ購入。合計1万円。
 ヒーターを抱えて二人で幹線道路まで歩く、タクシーを拾ってダルダニアのアパートへ戻る。早速暖房を使うととても快適、もうすぐ春だしUNカーが来てから暖房買えばよいと思って我慢していたが、これで寒くてベッドに入る生活から開放される。感謝。
 夕方からプリシュティナの街、HABITATオフィスを案内する。実は今日からUN-HABITATは研修でマケドニアのオフリドに出かけている。
 身内が来ているのに出席を求められる、しかしスケジュールを直前に変更したのはHABITAT、こちらはスケジュール変更と同時期に休暇申請を出してある。家族を犠牲にはできないと拒否。
 アルタンが間を取り持ち休暇をアレンジ、彼女を空港に送り次第、迎えをよこすのでそれに乗って向かってくれとのこと、了解した。
 仲間のプランナーにも同情される、当然休暇にすべきだと。

 5/8 空港へ送迎→HABITAT合宿へ
 日本では把握できないプリシュティナの事情、物資に困ることもなく、一般生活を送る上で少なくとも危険を感じることはない。街の様子、人の様子を見て彼女は安心したようである。
 面白いお土産、ということで、コソボのマークの入った地元のタバコ、お菓子、アルバニアの流行音楽を買う。バスに乗っている間ずっと流れていて、皆が足でリズムを取っている。なんとも不思議な音楽である。CDショップに行くと、ほとんどがコピー商品である。しかし地元の音楽はさすがに正規品。
 日本に持って帰るので、ベストチョイスしてくれ、まとめて買うのでディスカウントするよう交渉。
 テープを買う。
 やはりCDもほしいとのことでその後別の露天でCDを買う、お勧めは?と聞くとここでも同じCDをチョイスされ思わず笑う、このアルバム、そんなに人気あるんだ?
 かえって聞いてみると、バスでいつも流れているあのミュージック。足踏みしてリズムを取ってしまいそうになる。
 空港まで彼女を送迎。その後、迎えに来てくれたガジムと車でオフリドへ向かう。
 エリックの奥さん、フローも参加しても良いということになったらしく、彼女も拾って3人でオフリドへ。
 平均速度120キロでの移動、すっかりくたびれる。
 ホテルに到着すると、ローカルスタッフに歓迎される。アルバニア語を話そうとする日本人が興味深いようである。彼らの名前を日本語に翻訳させられる、。日本語で話し掛けられてこちらはおもわず苦笑。  

Abstract-12; The Adriatic Sea in Montenegro

 4/28 モンテネグロへ深夜バス
 次の月曜が勤労感謝の日ということで、3連休。休みが多い気もするが、仲間と出歩いているので休んだ気がしない。街を見て回るのも仕事のうち。
 シャムスの冒険によりバスによるモンテネグロルートが開拓される。南のアドリア海沿岸の地域まで行くことができて、とても美しいアドリア海をみることができる。
 4名の国際プランナー、いつものコバ、エリック、私に加えて、マレーシア出身のシアンが参加、更にエリック奥様、フローレンスも新たに加わり5名での旅となる。
 プリシュティナバスセンターを20時発、既にペーヤ市で仕事をしているコバ、プリズレンで仕事をしているシアンは途中でバスに合流する。
 バスは数度の休憩を得て山を越える国境(正確にはミッションエリア境界)に着く。パスポートチェック。無事に済ませてモンテネグロ中心地のポドゴリッツァを通過し更に南下。海沿いのウルチンという数少ないアルバニア系市民の住む街に到着する。朝5時。

 4/29 ウルチン、バール、ペトロバツ
 ウルチン到着時は曇り。寒い。まさかコソボより寒いことは想定もしておらずすっかり暖かいところへ行くつもりの格好。とりあえず朝食を食べられる場所を探す、アルバニア系市民は朝がはやく、カフェが6時頃でも開いている。食事は無理とのことだが、とりあえずコーヒーブレイク。
 ぽつぽつと雨が。皆傘に上着を持っている、なぜ?と訪ねると、旅行の時は傘や上着はヨーロッパでは常識、と言われる。寒いから早朝の散歩は一人キャンセルしてカフェで時間をつぶす。
 皆が戻りレンタカーを借りる算段をする。カフェにいた人がレンタカー屋まで皆を乗せてくれる。普通車に6人、フローはエリックの膝の上に座る。
 レンタカーが高い、諦めてタクシー交渉でバールに移動。
 バールは港湾都市で、イタリアへの航路もある。あまり景色を楽しめる街並みでなはない。旧市街が港から離れた山奥にあるとのことでそちらへタクシーで移動。毎回、乗る前に値段交渉。
 バール旧市街は、山にある静かで落ち着いた街、観光客はあまりみられない。歩いて、岩肌の多い山並み、オリーブの広がる畑、渓谷を見る。旧城跡、多くが草花で覆われている姿が時の流れとその穏やかさを感じさせる。
 昼食をするにも適当な店がない。皆でパン屋でパンを買い、カフェに持ち込みで食事。
 バールに戻り、モンテネグロらしい良い場所に泊まろうと合意、シャムスの泊まった夜は月が水面にうつり綺麗だというペトロバツに移動。
 夏には海水浴リゾートになる場所であるが今の時期はホテルも多くは閉まっている。余暇の楽しみ方の違いか、ヨーロッパ組は景色良くないが安い、街の入り口の宿舎に泊まることを決める。しかしアジア組は、折角の休暇ここまで来たら景色の良いホテルでのんびりしたいと別宿を探しに行く。このあたりお互い理解し合えないようである。なぜ?寝るだけだろう?ご飯は外で景色楽しめばいいし。という考え方もわかるが、景色の良い街では景色の良いホテルに泊まりたいのが我々の考え方である。
 しかし、ほとんどのホテルがオフシーズンでしまっている。唯一の景色の良いホテルは、非常に高い。シアンと私はしぶしぶ諦めて、ヨーロッパ組に合流。
 晩ご飯でも意見がまとまらない。どうしても魚が食べたいというシアン、ベジタリアンのコバ双方のニーズを満たすのは大変。残り3名はまぁどちらでも、という感じで魚もラザニア肉抜きも食べられるレストランへ。
 外で景色を楽しもうとするも寒い。ついには雨が、。でテラスに移動するも雨が吹き込む。最後はレストラン内部へ。
 エリック夫妻以外はデザートを食べようと食後店を変える。看板にあるたいそう美味しそうなパフェに惹かれて店に入るも、オフシーズンでアイスクリームがない。看板に偽りあり。
 結局雨の中走ってホテルへ。

4/30 ブダバ、セントヘレン
 早朝、傘を買いに外出。市場で傘を見つけて購入。それ以降晴天となる。傘を買ってくれてありがとう、と皆に感謝される。
 朝ご飯を食べられる店が見つからスーパーで食料を買い、またカフェに持ち込み食べる。
 今日の行動はエリック夫妻とその他が別行動となる。
 ペトロバツから北へ、ブダバに着く。旧市街は城壁に囲まれ細い道で構成されるコンパクトな都市である。比較的新しい石造建築だなと思っていると、どうやら地震の影響で一旦崩壊したものを現状復帰したようである。それでも、魅力的な市街地、小さなテーマパークのようでもある、観光客も比較的多い。アドリア海は水も澄んでいてとても美しい。
 モンテネグロは隣のクロアチアと並んで海岸線の美しさで知られている。クロアチアほどヨーロッパからのアクセスが良くないため、観光客もクロアチアほどではない。
 ウルチンのレンタカー屋でみつけたパンフレットにあった美しい島を発見する。セントヘレン、昔は漁村集落だったそうであるが今はホテルとして使われているらしい。街として機能していない点は残念であるが、外からの街並みの美しさに惹かれ訪問することにする。ブダバから30分ほど。
 やはりとても絵になる風景である。中に入るのに入場料を取られるがコバと私は入る。シアンは金を払ってホテル見学したくないと、外で待つことに。
 確かに中は生き物のように建築が輻輳して繋がっている。ここが村のままであったらさぞかし楽しいだろうと想像する。
 コバのガイドブック曰く、ラグジュアリーなホテル、だそうだ。参考までに価格を尋ねると一人80ユーロ、昨日の宿が10ユーロであることを考えれば、高いかもしれない。
 セントヘレンをでるとシアンがいない。はぐれる。最終はウルチン19時集合であるから、そこで会えることを祈る。
 ウルチンへのバスでサラエボ出身、ノルウェーで暮らす母娘に会う。日本の立川のNTTにいた経験があるそうで、日本の話で盛り上がる。立川にいたサラエボ人にモンテネグロで会う、世界は狭い。
 モンテネグロでコソボから来たことはあまり口にすべきではない。セルビア系市民が住んでいるのでアルバニア系市民を良く思っていない。我々にはもちろん親切である。
 「世界で一番悪い人種はパレスチナ人である。ヨーロッパではアルバニア人だ、いつも問題を引き起こすのは彼らだ」と語る。もちろん、アルバニア系市民jからすると全く反対の意見である。
 
 5/1 早朝帰宅
 ウルチンで、皆が揃う。そのまま深夜バスでプリシュティナへ。1泊3日の旅、バスはあっという間であるがさすがに疲れる。朝5時にプリシュティナにつく。
 そのままベッドへ。今日はだらだらと疲れをとる。

 5/2 青年・文化・スポーツ部局 部長とミーティング
  フェリザイ市はコソボでもスポーツで有名な都市だということを知る。ハンドボールはヨーロッパの大会に進出するほどだとのこと、フットボールはフェリザイ市のプロチームがあるが観戦料が1ユーロ、財政的に成り立たず自治体が支援している。その他バレーボール、バスケットボール、スキーチームもある。しかしそれを支えるスポーツ施設がほとんどなく、民間有料の施設が点在するのみ。何故プロスポーツが育つ素地があるのかわからない。
 更にコソボ映画祭が毎年フェリザイで開催されているらしい。それほどのアトラクションがありながら市財政への経済効果はほとんどないとのこと。文化省が主催していて自治体との連携がはかられていないし、財政投資もされていないらしい。文化省へ話を掛け合うことを決める。
 コソボは紛争の影響、戦後のベビーブームもあり若年層が非常に多い、これらの層の教育や雇用、社会参加が大きな課題となる。

 5/3 教育部局部長、総務部局部長とミーティング+相方コソボ入り
 教育部局部長とのミーティング、若年層の増加と学校不足、日本による学校建設支援について説明を受ける。特に学校の配置が市中心部に集中しており周辺の村落から子供が徒歩で2キロ通勤する現状があるとのこと。通学用の公共交通機関が発達していない。プレイグラウンドも不足している。
 児童が多いこと、将来の街のビジョンについて、絵や作文を書いてもらい、市民が少しでもプランニングに興味を持つようイベントを開催することを議論する。教職者が集まるミーティングがあるのでそこで話を詰めることにする。
 総務部長、ウエブページの管理や各村落との連絡調整、会議を行っている。今後村落での市民ミーティングの開催についての支援、ウエブページでの宣伝や告知について了承を得る。
 
 夕方、相方の理恵子がプリシュティナに到着。前日はウイーン滞在。ゴールデンウイークを利用して短期間現地の様子を見に来た。魚沼産コシヒカリと飯ごう、味噌などの差し入れをもらう。
 到着早々、仕事のパートナーであるアイダの自宅へ挨拶に伺う。娘のハナがとても可愛い。
 その後フランクとその他UNMIKスタッフとフリスビー、アルティメットに参加。フットサルのコート、5対5でフリスビーを仲間で回して、相手のゴール内でフリスビーを受け取れれば勝ち、下に落とせば攻守交代。
 すっかり夜も更け、帰宅する。
 

Abstract-11; Staff Meeting in Mitrovica

4/27 ミトロビッッアへ
 プリシュティナのバスステーションでバスを待つ、時刻表には多くのバスが発着するスケジュールになっているにも関わらず、バスが来ない。1時間近く待つ。まずいなと思い人に聞くと、道路沿いでバスを待てばすぐ来るそうだ。何のためのバスステーションなのか、。
 バスもステーションに寄るのが面倒だし人も道沿いで乗ってくる、その結果、道の脇に停車して人を乗せる仕組みが採用されているらしい。この国では情報は人に聞くのがベストだと再認識させられる。
 とりあえず8時に大型バスが来ることは確からしい、10分前だったので既に停車しているミニバスに乗る。乗客が満員になったにもかかわらずミニバス運転手は外で話し込む。仕舞いには大型バスも到着、拉致があかないと、大型バスに乗り換えようとするとあわてた運転手に制止される、「今出発する!」、とのこと、ミニバスに戻る。その他乗客も苦笑い。
 何故か猛スピードでミニバスはミトロビッッアへ。 運転手は行きたいことろを一生懸命聞いてくれる。人は親切である。

 ミトロビッッアはコソボ民族紛争で最も政治的情勢が不安定な地域である。市街地が川を挟んで南北に分かれている。北側はセルビア系、南側はアルバニア系市民居住地域となっている。
 2004年のミトロビッッア民族再衝突事件、コソボ各地でのオーソドックスチャーチ焼き討ち事件は記憶に新しい。
 オーソドックスチャーチはセルビア系市民の信仰対象である。コソボのほとんどの地域でアルバニア系市民が大多数を占めるなか、この事件の影響によりセルビア系市民や宗教への弾圧と制裁が各地で行われ、治安部隊との衝突も起こった。
 コソボでセルビア系市民が半数近くを占める都市はここミトロビッッアのみである。自治体は南側アルバニア系市民により運営されている、北部はUNMIKが暫定自治を行っている。
 南側にある自治体でミーティング、ミトロビッッアの状況についてプレゼン。
 国際スタッフの一人がプランニングについて質問、「南北含めてプランニングを行うか」、との質問に、「そのつもりであるが、北側からのリアクションがなかなか得られない」、とのこと。プランナーとの交流も行っているが、北側の反応が悪いと回答。更に突っ込んで、「融和をはかろうとしているのは政治的レベル、プランナーレベルであって市民との温度差があるのでは?」との質問。
 「市民レベルでもマケドニアで会議を開きアルバニアセルビアでの話し合いが何度も繰り返されている」とのこと。実態はなかなか進まないものの、それでも何かはじめようとしている空気がある。
 
 いくつか動いているプロジェクトについて。セルビア系の民族浄化の手助けをしたとして、南部にあるロマ(ジプシー)の集落がアルバニア系市民に完全に焼き討ちされ崩壊している場所を見学する。ドナーからの資金提供を受けてその再生のプランが描かれつつある。

 南北に架かる橋はKFORにより警護されている。渡れるが、何ともいえない空気がある。北側のバスは端の手前で引き返し、南側の車も橋から先へは行かない。歩いて渡る人もあまりない。
 北側には高層住宅が川に沿って見える。もう、平和であるはずだが、気持ちは晴れない。ローカルスタッフはアルバニア系、橋を渡ったことはある、安全である。
 しかし、どこの国にでも普通でない人々がいる。もし橋を渡っていて、そうした者に銃口を向けられないとは言い切れない。もちろん、そういうことはないはずである。しかし、万が一のリスクを思うと、この橋を渡りたくないと感じる双方の民族感情を肌で感じた、気持ちの良いものではない。
 この橋は、写真撮影を禁止されている。それほど、デリケートな問題である。
 もちろん、ここでも橋の周辺を除き平和な街のように、そう見える。

Abstract-10; Jogging with Frank

4/22 引っ越し
 土曜、大きなトランクを持ってゲストハウスを出る、人通りが多くなってからタクシー探してうろうろするのが嫌だったので早朝に出掛ける。
 HABITATのある通りまで10分ほどトランクを運びタクシーをつかまえ新居ダルダニアへ。ゲストハウスがプリシュティナ北部であるがダルダニアは南にある。荷物を運び込んで引っ越し完了。
 ヨーロッパのアパートはほとんど家具付きであり、ベッドからテーブル、キッチン、洗濯機から鍋、ナイフフォーク、食器までほとんどのものが揃っている。なにも買わずともすぐに生活を始めることができる。もちろん包丁の切れが悪く買い直したり、まな板が小さすぎたりと問題がある場合は買い足すものの大きな不便はない。まだ寒いがセントラルヒーティングは冬季のみ、そういう意味では今の季節、暖房が不足しているのが問題ではあるが。
 横浜のアパートから居住水準が向上。家賃は5万円強、広さを考慮すれば安いが、一般のヨーロッパの水準から考えると高い、しかもコソボであるにもかかわらず。広さを抜きにして考えればベルギーの水準と変わらないとコバが不満を漏らしている。
 日本の状況と比較すればNYにでも行かない限り、住居費はなんの問題もない。というより日本の賃貸住宅の劣悪さを思い出すと気が重くなる。
 
4/23 ガルミアパーク
 ナショナルパークというと話がややこしくなる。コソボ地域には国がない、国連暫定統治中なので、市民公園といった方が現在は正確かもしれない。ともかくガルミアパークという自然公園が北部にある。
 その山を超えるとセルビア、言いようによっては最前線にある公園である。
 朝10時にフランクと待ち合わせてジョギングに。外国人のテンションは予測不能なのでとりあえず先にストレッチなどアップを集合時間前に済ませておく。案の定、車から降りて公園につくとアップもせず早々に走り出す。
 丘の下に広がる芝と林道の綺麗な公園を走る。気温も寒すぎず暑すぎず良好。久々のジョギングなので不安ではあるものの気持ちがよい。
 どんどん走る、そろそろ折り返すかと思いきや、丘を登り始めた。途中には朽ち果てた建物、これはセルビア警察の建物でピンポイント空爆で破壊されたものだそうだ。さらにあがる、どれだけ走ったか、会話しながらなので息が上がる。途中歩いて休んで、また走る。
 丘の上(実質山といっていい)まで行く途中、道路の脇の林に黄色いテープ、林へ入らないように注意書き「Watch Mine(地雷注意)」。
 コソボの最北地域、当時セルビア警察関係の建物があった場所周辺は空爆により樹木が燃えて倒れた跡が未だに残っている。その周辺にはセルビア軍またはアルバニア人が地雷を撒いているようで未だにその処理がなされていない。ただしこうした場所は市街地にはなく、境界付近の人が普段入らない地域のみであるため、普通に生活している分には何の問題もない。
 「用足しに脇道にそれると、ボン!だから。」と笑うフランク。しませんよそんなことは。

 山頂は空気も澄んで、鳥の鳴き声と自然の音しか聞こえない、とても静かで美しい風景。花の咲く野原、ジョギングで疲れていても、それでも気持ちがよい。
 その足で山を降りる、どこにそんな体力があるのか、フランクが早い。結局3時間以上も歩いて走ってお昼過ぎ。くたびれた。
 夕方からフランク宅で魚バーベキューをすることに。ジョギングに日和った仲間達も呼ぶ。
 魚は新鮮なものを売っている唯一の魚屋へ。キロ単位で値段が決まっている。鯛に近いさかな(Borado?)を頼む。1匹大体300グラム程度。なかなか美味だった。

 4/24 自治体はお休み
 正確にはよくわからないが、自治体のイースターの休日とUNの休みが1週間ずれているらしい。仕方がないのでプリシュティナに滞在。
 生活用に自転車を買うことにした。スーパーの格安で60ユーロぐらいのを買うつもりでいたが、故障したら対応してもらえないとのこと。プリシュティナ中を探して自転車屋を見つけた。
 人の良い職人気質のお店のおじさん、手は自転車の油で真っ黒。ああだこうだと話して注文して、ギアをシマノにチェンジ。アルミのハンドルに駐輪時のチェーン、ライトをセットにして1年間保証、120ユーロで購入。ここを去る時には売却する。
 走っていると不思議な日本人が新しい自転車に乗って走っているので、奇異な目でみられる。埃が多いので目が痛い、サングラスも必要。
 フランクも自転車を購入、コバはペーヤ市で自転車中古を購入。自転車が流行?
 彼らは普段もサイクリングが趣味だとか 。

 4/25 アイダ休暇より戻る
 久々にローカルスタッフのアイダが戻ってきた。アメリカの市民権を得たとのこと、おめでとう。コソボではUNMIKのIDを市民が持っているが普通パスポートは所持していない。海外に行く場合は百数十ユーロを支払ってビザを取得しなければならない。しかし、アメリカのパスポートがあればどこにでも行ける。娘のハナ、アイダは既に取得済み、旦那と息子のジニが夏には市民権取得するということ。
 NATO空爆前、難民としてマケドニアスコピエに避難、そこからアメリカに渡る。アメリカでは難民に対する特別な対応があり、市民権をとりやすいとのことであるが、それでも年にいくらかはアメリカに滞在しなければならない。4-5年その期間を過ごすことで市民権を得られるようであるが、誰もができることではなさそうである、費用がかかる。
 それでも、故郷のコソボに彼女はいる。故郷だから。そう言った。
 とにかく、おめでとう。その重い言葉にそれ以上の言葉は見つからなかった。

 4/26 道路改善事業について
 HABITATとしての助言をまとめ、自治体プランナーのムスタファと議論する。 難しいところであるが、具体の提案をするというより、プランナーが考えて決断できる選択肢と考えるためのアイデアと提供する。
 改善する道路は住宅地を通る道路で、幹線道路から直接フェリザイ駅北側にアクセスする。中心部ヘアクセスする主要道路は3路線、住宅地の車処理のために道路を拡張して車道を増やしたいとの要望。
 しかし建物が建ち並んでいる状況があり、過去の計画18mの確保は難しい、車道は増やしたい。
 主要アクセスとなる3路線の役割、新たに改善する道路の役割と環境・交通ネットワークへのインパクトについてメモを作り議論。すべての路線がシティセンターにアクセスすれば交通渋滞は免れない。
 結果、新たな道路の役割が住宅地のための交通のみで通過交通や大型車用ではないこと、周辺環境へのインパクトが少ない設計とする必要があること、特にシティセンターに集中する学校への児童登校をふまえ、歩道を優先的に整備する必要があることなど、いくつかの共通見解を得た。その他中央分離帯の設置、ランドアバウト(円状道路で信号なしで車を捌く道路の仕組み)、車のスピードを抑える仕組みなど、今後議論を進める。
 
 

Abstract-9; US-AID

4/18 旧ユーゴ時代のマスタープラン
 今日から1週間、アイダは休暇でアメリカへ。市民権を得るための手続きに出掛けるとのこと。自治体職員は英語が話せないので、誰かローカルスタッフをつけようかとのフランクの申し出があったが、なんとか辞書片手に資料を収集して読み込むから必要ない、と断る。
 現在、自治体にはプランナーがいない、が古いプランがある、という状態である。
 旧ユーゴ時代、中央政府(ベオグラード、プリシュティナ支部)で都市計画のマスタープランや規制プラン、詳細プランが策定され、自治体職員はその計画を実施するのが仕事であった。
 紛争前後の混乱、セルビア系プランナーの国外避難により、計画セクションがなくなると同時に自治体の開発コントロール能力も低下した。現在は建設許可がほとんど行われない、いわゆる「違法建設」都市が形成されている。
 今日は1992年に承認された、フェリザイ市の都市計画マスタープラン(ジェネラルアーバンプラン)を入手する。プランには市街地現況図、道路計画図、密度規制図、用途規制図などが添付されており、図面はセルビア語、アルバニア語で表記されているものの、ドキュメント自体はセルビア語のみである。当時はセルビア人がプランナーであったためである。
 計画と現状の市街地を見るときわめて異なるポイントがある。道路計画と緑地計画といった都市基盤の計画である。道路計画はバイパス整備、幹線道路ネットワークなどが整然と計画されている。しかし、現状の市街地を見るとパイバス予定地に建物が建っているなど、とても簡単に実現できるプランとなっていない。緑地についても、道路同様の状況である。
 どこかの国の都市計画の状況が脳裏によぎる。

4/19 Does anyone have a plan?
 今日も一人で役所へ。たくさんの人がHABITAT分室に来るが、通訳がいないので路頭に迷う。
 「おはよう、お元気ですか?アイダは来週まで休みです」とかろうじて伝えるアルバニア語で対応。しかしアイダがいないと、皆それなりに伝えようと片言身振り手振りで対応。通訳してくれる人がいない方が自治体職員は頑張ってくれる。
 毎朝皆に挨拶するだけだが、心配して様子を見てくれている、ありがたいことである。親切で人なつっこい人が多いので助かる。
 夕方プリシュティナに帰って、OSCE(ヨーロッパ安全保障協力機構)で上映される映画を仲間と見に行く。気分転換として、火曜日にOSCEで、水・金とUNMIKで映画が上映される。最新の映画が放映されるので楽しめる(UNのIDがないと入れない)。
 今日は「Does anyone have a plan?」というコソボ独立に向けてのドキュメンタリー映画、セルビア系、アルバニア系の市民、政治家様々な立場の人の意見を多角的にまとめたもので、現在の状況の難しさを如実に示していた。政治とプランニングは別物、しかし切り離して考えられない。 

 ちなみにプリシュティナ市にも一般市民が観る映画館がある。最新の映画が上映されているものの、それは、誰かが他国の映画館でビデオ撮影した海賊版で、画面は動くし、英語も聞き取りにくい。
 ちなみにDVDも1-2ユーロで大量に販売されているが、そのすべてがコピー商品、映画も最新のものがある、まだ上映中のもの。試しに買うと、やはり誰かが映画館で盗撮したもの、違法大国である。
 
 4/20 Good Governance Conference by US AID
 自治体の自治支援として、HABITATとほぼ同じ自治体を支援しているアメリカのNGO、USAIDが会議2日間にわたりコンフェレンスを開催。テーマはコソボ地域都市計画「Spatial plan of Kosovo」について、ペーヤ市・シュプレッツァ市についての事例。違法建設についてなど。
 午前中は全体のコソボのプランニングの状況について、午後はセッションに分かれて話を聞く。
 残念ながらあまり著しい成果なし。
 
 午後に出席したシュプレッツァ市の自治体ディベロップメントプラン策定について、AID担当者(アメリカ人)が説明したものの、実際の参加のプロセスやプランの実態など全く説明なし。
 地元プランナーが詳しい状況提供を求めるも、担当がいない、と一蹴。
 一般的な話は必要ない、詳細が知りたいとの意見、最後に「そろそろお昼の時間、貴重な意見ありがとうとざいました」。
 違法道路についてのセッション、「道路とはなに?」「道路はだれのもの?」といった教育的な講義を。アメリカでは主要道路への道路接続は厳しく制限され、許可を得た道路は対価を支払う。それがわかるように道路にはポールがたてられる、等の説明。
 HABITATローカルスタッフが議論を盛り上げようと、今の違法道路の状況を説明、他の参加者が新たな道路ではなくて今の現状にどう対応するか教えてほしいと質問するも、最後には「そろろそコーヒーブレイクの時間です、コーヒーを飲みながら議論しましょう」で終わり。
 昼食の際にペーヤ市の自治体ディベロップメントプランを策定したオランダの都市計画コンサルタントの担当者と同テーブルになる。ドイツのコンサル担当者とはまた違い、ビジネスマン、ビジネスライクな感じ、あぁ、こんな感じの人いるよなぁ、、どこにでも。
 各関係者の参加、実現性、自治体の意見なの全くふまえずプランだけ策定して去っていった会社、こんな感じのコンサルもどこかの国にたくさんいるな、と思わず仲間の国際プランナーと顔を見合わせて苦笑。

 US AID http://kosovo.info.usaid.gov/

 
 4/21 国連運転免許試験の練習
 午前中、国際プランナーの4名とローカルスタッフ2名の計5名が国連の車を運転するための試験を受ける練習にでかけた。HABITATドライバーのガジムが講習。車は白いボディに、サイドに大きな文字で「UN」とかかれている日産4WDテラノ。
 この大きな車でバックから駐車、縦列駐車、市内運転の試験を行う。左ハンドル右側通行なので日本とは全く逆であるが、車運転には慣れているので問題なし。さすがに左ハンドル4WDの縦列駐車は難しいが、。
 ペーパードライバーのシャムスは断念、ロデオのごとく車体が勢いよく揺れて、跳ねて。非常に危険。
 そろそろこちらにきて3週間近く経してゲストハウスから引っ越すことに。アパート探しに不動産屋を回る。アルタンが月300ユーロは出さないと適当な住居がないとアドバイスをくれていたので300ユーロで物件を探す。5件の不動産屋のうち、3件が400ユーロ以下はないと答える。
 のこり2件の不動産屋のうち1件は本人の家の隣を300ユーロで貸すとのこと、ドアにガラスがあったり容易に窓にアクセスできる状況なので却下。
 もう1件、2物件を紹介してくれる。1つはUNMIK目の前の中心部。しかし中庭が駐車場になっており部屋は2階で窓のロックも安全とは言い難い、却下。
 最後にダルダニアという新興住宅地のマンションへ。大家さんは外国語はドイツ語しかはなせないアルバニア人の優しそうな人。大家さんが隣に住んでおりドアは2重で4階、部屋は80㎡、広いリビングダイニングにキッチン、2寝室、バス、WC。
 閑静な住宅地ではなくがやがや人の多い地域で中層だが、広さと価格でここに決める。バスセンターもマーケットも近い。近所の人とまだ入居する前なのに仲良くなる。
 非常に親切で親身な人が多い。住居も決まり少しずつ落ち着いてきた。

Abstract-8; Thessaloniki,Greece

4/16 ギリシャの休日
 朝起きてギリシャ、港町、テッサロニキを歩く。旧市街には高層マンション・オフィスが建ち並ぶ。ファザードは整っているものの歴史的市街地という雰囲気は少ない。
 主なポイントはシーサイドと旧市街をつなぐ目抜き通りが数本あり、旧市街から坂を下って遠い先に海が見える景色がよい。アイ・ポイントとなる歴史的モニュメントが道路の先に見える、タウンスケープが良く計画されていると感じる。
 ギリシャ第二の都市であり当然であるが、白い家々と遺跡が思い浮かぶギリシャのイメージ、とは少々異なる。
 日曜のため、多くの店舗は閉まっている。ショッピングに来たわけではないが、普段の人通りがわからないのと、本屋が閉まっていることが残念である。
 朝食にサンドイッチにコーヒーを街角で食べる。久々にEU加盟国での食事であるが、やはり高い。コソボ価格に慣れているので、少々戸惑う。日本の価格に換算してもEUの価格水準は高いと感じる。ポルトガルでも、もっと物価が安いと想像していたが、EU加盟の影響か全般的に高い感じがした。ギリシャが高いのは当然だろう。
 ウオーターフロントではアディダス主催のマラソン大会が開催されている。アテネで一度はマラソン走ってみたいものだが、こちらに来てからジョギングをしていない。
 ビザンチン博物館、テッサロニキ考古学博物館を見学。 テッサロニキで街の普通の暮らしをしるために、旧市街から北へ斜面地に広がる住宅地にむかう。細い路地、曲がりくねった道、どうやってここまで車を入れたのかと思うような場所もある。
 旧市街の高層の街並みよりも、細い路地、緩やかな坂道、小さく白い壁の住宅。こちらの方が落ち着く。
 昼ご飯は久々にチキンフリッターを食べる。コソボでの外食は大体が牛肉、ケバブ系である。イスラム教徒が多いので豚肉はほとんど見られない。チキンは問題ないがそれほど見かけない。
 晩ご飯も質素に済ませる。普段の生活ではお昼以外は大体自炊しているので、久々の外食続きに食傷気味。

4/17 カフェ
 朝8時過ぎの電車でマケドニアのスコピエへ。昼頃到着、プリシュティナ行きの電車が16時過ぎなのでスコピエ市街散策に向かう。
 カフェでマキアートを注文、バルカン半島はトルコの影響を受けていること、イタリアが近いこともあるのか、コーヒーがとても美味しい。
 一般的な種類は以下の通り、スモール、ビッグがあるがスモールを注文すると日本で飲むエスプレッソの小さいカップで出てくる。大体のカフェではコーヒーとともにミネラルウオーター(ガス入り)がつく。コーヒー二は大量の砂糖が付いてきて、皆これを入れて飲むが、私は入れない。
 コーヒーの種類は以下のもので、日本で飲むフィルターで煎れるコーヒーはあまりないし、ヨーロッパの人はあまり好きではないようである、アメリカーノは薄くていまいち、と国際プランナーも皆そう答える。

・エスプレッソ;日本同様
・マキアート;これも日本で一般的になりつつある、コーヒーに泡立てたミルクが入っている。一番多く飲まれている種類。
・カプチーノ;たっぷりと生クリームがのっている、疲れたときには良い。

 帰りの電車は本数も車両も乗っている人も限られている、プリシュティナ行き。予定通り国際プランナーのコバを発見、ソフィアへの旅について話を聞く。
 夜中、国境近くでバスが故障、動かなくなり乗客の大半が携帯で電話して自宅からの迎えやタクシーを呼ぶ。困り果てたあげく、他の乗客と乗り合わせてタクシーでスコピエに戻ったらしい。15ユーロ無駄に払ったのを旅行会社に電話でクレームしたが、ソフィアの事務所で話してほしいと言われあきれていた。とにかく、バルカン半島での旅は時間とスケジュールに余裕を持つ必要がある。
 スコピエからの電車でベオグラードにも行けることが判明。少しずつ周辺諸国へのアクセスが把握できてきた。
 国境でのパスポートチェック、IDチェックはやはりマケドニア・コソボ間では物々しい。しかし問題なく通ることができる。
 連休も終わり、明日から仕事復帰。
 
 
 

Monday, May 22, 2006

Abstract-7; Skopje, Macedonia

4/15 マケドニアのスコピエ
 祝日は日本とは異なる。国連の休日は欧米の休日にあわせて設定されており月曜日はイースター。国際スタッフでいつものように金曜日の夜ご飯をつくり食べながらどこに出かけるか検討する。
 まだコソボに来てミッションエリアから出ていない。先にコソボ入りしていたシャムスの情報ではマケドニアのスコピエには問題なく行けたとのこと。ギリシャに彼女がいるフランクにアクセスを確認、電車で行けるし、テッサロニキ(ギリシャ第二の都市)であれば夜に到着してもホテルは探せるから大丈夫、とのこと。マケドニアのスコピエ経由でテッサロニキに行くことに決める。
 電車は前述のように路線が運行しはじめたばかりで2本/日、朝6;20発の1本目に乗る。今回は4名のうち3名がスコピエまで一緒。コバとエリックと私は朝9時過ぎにスコピエに到着して午後4時頃まで共に市内散策。以降、コバは友達に会いにブルガリアのソフィアへ長距離バス、私は乗り換えてテッサロニキへ、エリックは奥さんが来週来るとのことでそのままプリシュティナへ戻る。
 ゲストハウスにいるもう一人の国際プランナー、シャムスはというと、金曜日の夜突然、モンテネグロに行くバスを見つける。17時頃急に電話がかかってきて、19時にモンテネグロ行きの夜行バスがあるから行かないか?とのお誘い。
 夜行バス?モンテネグロ?!夜中に山の中に降ろされたらどうする?無事戻れる?ちょっとその冒険には乗れないなぁと思い、と断る。シャムスは大冒険に出かけた。明るく穏やかな人柄で面白い人である。
 (結果彼は、モンテネグロへのバスルートを開拓した。すばらしい旅だったようで皆関心した。)
 
 こちらはスコピエの新・旧市街を散策。1968年に地震で市街地の大半が崩壊し、復興計画を丹下健三が手がけたと情報を得ていたので、チェック。エリックとコバがいかにも丹下さんらしい建物を見て、とてもよい建築だと絶賛。「多分日本の建築家の丹下さん設計だよ」と解説すると「Kenzo Tange!」と感嘆、さすが世界の丹下健三。
 旧市街はバザールがあったり、オスマントルコの影響を大きく受けている。中庭を囲んだ古い建物のなかがレストランやカフェになっており、地元の弦楽器の楽団が演奏をしていた。コーヒーを飲みながら音楽を聴く。
 さすがにスコピエは資本主義の空気を感じる。コソボにはないものがそろう、特に洋書や電機機器。
 プリシュティナからも近く、気分転換には良い場所だと感じる。

 皆とわかれて電車を待つ。電車はどうやらベオグラードから来るものでこちらも2本/日程度しかない。16;20のはずの列車がまったくこない。乗るつもりの人々があちらこちらうろうろ、駅員に聴いたりなんだかんだ、あの電車じゃないか?いやこれだ、乗ってしばらくして、この電車じゃないらしいよ?などどんどん知り合いになる。
 アメリカ人の若者、ペンシルバニア出身でイタリアにコンピューターグラフィックのアートの勉強にきている青年と仲良くなる。学校の休みで電車でバックパッカーしているようで、コソボにも行きたかったがベオグラードで、「危険だからやめたほうが良い」と皆に言われてあきらめたらしい。私がコソボからきたと聞き驚く。
 少々シニカルではあるが、アメリカ人がコソボに行けば歓迎されることは確か、ビルクリントン通りがあるし自治体のディレクターの席にも星条旗が飾ってあることもある。
 結局3時間も待つ、到着時刻が深夜、少々不安だが仕方がない。もう少しであきらめてスコピエに宿泊するところだった。こんなに電車が遅れたのはここがはじめてだと、アメリカの青年がぼやく。
 電車個室、6人がけ対面シートに二人。パンを食べて座席を倒すと個室ベッドになる、快適ねる。
 マケドニアの国境でたたき起こされる、また寝る。すぐにまたギリシャの国境でたたき起こされる。確かに、出入国はセットだ、忘れていた。
 パスポートチェックに電車を降りる。しばらくしてパスポート返還。また寝る。
 ふと気づくと誰も乗っていない、私とアメリカ人の彼だけ寝ているが電車が動いている、。
テッサロニキの駅を過ぎつつある!,.

 緩やかに動く列車の外の乗務員に確認、大丈夫とまるから、とのこと。友人を起こして、線路を歩いて少し戻る。到着時刻は時差1時間を追加して夜中1時。
 アメリカ人の彼は悩んだ末そのまま夜行電車に乗りアテネへ、私はホテルを探しに。
 1泊45ユーロというのをまず見つけて、高いと文句をいうと、トイレバス共用で25ユーロならあるとのこと、それで充分、2泊分払ってゆっくり眠る。

Abstract-6; Meeting with Directors

4/10 都市部局 部長とミーティング
(Director/Department of Urbanization)
 アイダのクレームにより、HABITATアルタンとアダム(作業係)が週末にオフィスにきて壁を塗り替え、デスクを設置して、コンピューター、プリンター、予備電源を設置してくれたようだ(後で聞いたが、アルタンは雑務係でもないのに休日出勤してアイダのクレームに対応したそうだ。半分眉をシカメテイタ)。
 しかしパソコンは起動せず。明日ネットワーク確認も含めて対応してくれるらしい。殺風景な部屋、北側にあり恐ろしく寒い。
 アイダはローカルプランナーで、SIDAの参加のプランニングに関するトレーニングも受けており、HABITATコソボでももっとも長くスタッフをしている。ハナとジニの2人の子供がいる。ハナはアルバニア語で月という意味、ジニは有名な戦士の名前らしい。戦後プリシュティナに戻り、両親と家族とともに暮らしている。難民としてマケドニアへ行き、アメリカに渡る。最近アメリカの市民権を得て、海外にも自由に出かけられるようになった。
 もともとプリシュティナ市でプランナーをしていた経歴がある。これからフェリザイ対応は2人で行うことになる。
 フェリザイ自治体ではムスタファが主にプログラム支援をしてくれるようだ。英語が話せないが、対応も早くミーティングの調整や資料を探してくれる。
 
 早速都市部局のディレクターとミーティングを行う。挨拶とHABITATの目的など。都市部局で差し迫った課題として、フェリザイ駅北からスコピエ-プリシュティナをつなぐ幹線道路にアクセスする道路「ゲルバラストリート」改善について意見を求められる。
 予算の少なさ、戦前の社会主義時代のプランでは18mの幅員で整備が計画されていたが、戦争前後の混沌期に無許可で建物が建ちならんでしまい、幅員を確保できない。また戦前の道路計画には18m道路に併せてバイパスも計画されているが、建物が立ち並びバイパス整備も現実的ではない。
 日本の道路事業のような道路上にある個人資産への補償制度がない。予算もない。

4/11 建設部局 部長とミーティング
(Director/Department of Reconstruction)
 この部局は名前とは異なり、都市・建設部門の予算とプロジェクトを管理している。現在動いているプロジェクトについて説明を受ける。ゲルバラストリート、ラチャクトストリートの改善、自治体建物用地の確保など。プロジェクトとその優先順位は戦略として用意されているが、予算が伴わず事業が進んでいない状況にある。
 都市計画のマスタープランである、自治体ディベロップメントプラン(MDP)、アーバンディベロップメントプラン(UDP)策定のデータ提供なども担当している。
 
 MDP、UDP策定にあたり、自治体では都市計画コンサルタントに技術支援委託契約を結んでいる。ドイツのコンサルタント数社がコソボに入っている。UN-HABITATとしての役割は、コンサルタントの技術的提案を受けて、自治体プランナーが主導となり現状・居住者の意向を踏まえた独自のプランを策定できるよう技術支援を行う。
 旧ユーゴスラビア時代、都市計画は中央政府のベオグラード、支部のプリシュティナで行われており、末端の自治体はトップダウンの計画を履行する組織でしかなかった。つまり、自治体には都市計画のプランナーが存在していない。UN-HABITATはプランナーを育成しながらプランを策定させるという、極めて複雑な業務を行う。

4/12 スタッフミーティング
 プリシュティナのオフィスで状況報告。まだ自治体の準備が整っておらず本部で状況把握する者、実際に自治体に入っている者、すでにオランダのコンサルタントがプランを策定して絵だけ描いていなくなってしまった自治体で、さてどうやってプランを修正するかと悩む者。
 状況把握と意見交換。自治体職員が英語を話せず苦労したり、パソコンがない、ネットワークがない、暖房設備がない、スペースすらないなど、問題が山積み。われわれのオフィスは寒くてコートなしで仕事できない。
 日本の場合は状況が整ってから専門家を呼ぶと思うが、段取りは悪い。用意されていないものも多いし何度かリクエストしてもすぐには行われない。日本の、というか私の、スピード感と異なるので、あきらめておおらかに構えることにする。
  聞いていないのではなく、手続きにいろいろと時間がかかることは確かなようである。
 
4/13 フェリザイ分室
 古いパソコンは使えるようになったが、電話とネットは相変わらず不通、今年は例年になく寒い春とのことで、寒い日が続いている。
 自治体は電力不足でたびたび停電する。データはこまめにバックアップ。電力不足のため、電気の暖房設備を設置するのが禁止されているが、隠して設置しないと身体がもたないとアイダと合意。冬はセントラルヒーティングがあるので大丈夫だと思うが、。
 パソコンも新しいのが支給されるらしい、それまでは古いもので対応。個人用のVAIOを使うこともある。
 自治体は8時~16;30が業務時間、16時には人がいない。はじめに、就業後も役所に残ってよいかと確認したら、良いが誰もいないぞ?とのこと。給与水準に問題があり、仕事後別の仕事をしたり、自分の家を建設したりすることがあるようだが、就業後について詳しく聞いてはいない。
 プリシュティナオフィスに帰ったり、現地調査したりして就業後を過ごす。

4/14 IDカード
 UNMIKの本部へ行く。歯医者で見かけるような柄のついた鏡の大きいので車体の下までチェックされる。爆弾チェックでしょうね。国連の白い日産テラノが大量に並んでいて、異様な雰囲気である。
 IDカード作成に国際スタッフででかける。国連の青空色の国旗をバックにコンピューターで写真撮影。アイカラー、身長、国籍などの確認。でその場でID発行。
 これがあるとミッションエリアの出入りが容易になる。 
 今日はプリシュティナオフィスで過ごす。フェリザイのネット環境が改善されているはずである、来週は。

Abstract-5; First visit to Prizren


4/8 プリズレンへ
 初の週末。ゲストハウスには4人の国際プランナーが同じ階に滞在している。週末どうしようかという話になり、セルビア人の村であるガチャニチャに行こうと一旦決まるが、まだ国連の正式IDカードもないので、KFORにガードされている村に入るのは面倒があるかもしれない。プリズレンに行くことに決める。
 朝9時頃、4人連れ立ってバスセンターへ。プリズレン行きのバスに乗る。
 プリズレンまでは2時間ほどか、バスも大きいので外の景色を見ながらだとあっという間である、悪くない。途中、スワリカ村を通る。エリックが戦後すぐに住宅復興支援に入った村である。凄惨な歴史を経験した村、ほとんどが復興されているが、古い建物を良く見ると弾痕を見つけることができた。
 過ちを恐れず、1999年空爆前後の出来事を簡単に説明する。これは書籍に基づいているので、発端が誰なのか、誰が悪いのかなど誰も推測できない。いうなれば皆が被害者。
 
 ~知りえた情報と市民との会話から得た私見~
 チトーの死後ユーゴスラビア連邦の弱体化、裕福な地域から次々に独立。スロヴェニアをはじめ、クロアチア紛争、ボスニアヘルツェゴビナ紛争、マケドニアの平和的独立。この間、セルビアのミロシェビッチ大統領が危機感を募らせて武力行使、独立を嗜好するコソボに圧力をかけ紛争へ(民族浄化)。大量のアルバニア人がコソボを追われ難民に。状況の悪化をみたアメリカが主体となりNATOが、国連の合意なきままに、セルビア政府関係建物をピンポイントで空爆。セルビア軍(警察)の撤退。
 故郷に帰還しはじめるアルバニア人、危険を感じて逆に難民となるセルビア系一般市民。家族を殺され、家や財産を奪われた者も多く、アルバニア人の報復が始まる。
 セルビア人住居(村落)の焼き討ち、殺戮、荷物を取りに帰ったセルビア人を殺すための地雷がセルビア系住居周辺に撒かれる。コソボにおいてセルビア系一般市民が少数民族となる。
 唯一セルビア系一般市民が多く居住するミトロビッツァ。2004年にセルビア系市民間がアルバニア系市民に報復したという事件をきっかけに、セルビア系市民が信仰するオーソドックスチャーチ(ギリシャ正教系)がコソボの各地で焼き討ちされる。
 現在、少数民族となったセルビア系市民の住む村はKFORに守られている。また、オーソドックスチャーチも信仰する者を失い、鉄条網で囲まれKFORに守られている。
 ほとんどの市民がアルバニア系市民となっている現在、民族紛争の面影は見られない。争うつもりはないが、相互理解も難しく、住み分けているというのが現状かもしれない。

 プリズレンはセルビア人にとって聖地に近い位置付けがある。歴史的都市でありコソボのなかでももっとも美しい都市である。
 プリズレンに到着、山際の歴史的都市と一般市街地を挟み河川がある。河川沿いや旧タウンセンターは戦後復興により街並みを取り戻している。しかし旧市街のセルビア人居住地は2004年のアルバニア人の報復により焼き討ちされ崩壊したまま、鉄条網で囲まれている。エリックの情報では、この地域は地雷が撒かれている可能性があるので近寄るな、と聞いたとのこと。2004年事件により旧市街の大規模なオーソドックスチャーチが破壊されている、修復作業が行われている気配があるが、やはり鉄条網で守られている。一般市民は過ぎ去った過去のことのように気にもとめる様子はない。
 市街を歩く、河川沿いで食事。にぎやかな人の話し声、美しい街、火災の跡の残る建物。
 この都市についてもHABITATが支援する。市街地の状況は良好。
 帰りのバスを油断して逃す。皆でタクシー相乗り、一人10ユーロ。帰りの道すがらの農村風景、似通った建物が数棟かたまって建っている、その棟数で息子の数がわかるようである。あるクラスターは3つの似た建物、これはファミリーに3人の息子がいることになる。娘には家は用意されない。

4/9 休日
 国際プランナーはまだゲストハウスに住んでいる。キッチン・バス共用なので、夜は皆それぞれに料理をする。ベルギー出身のコバはベジタリアンで、野菜にチーズ中心の食生活。同じくベルギーのエリックは何でもありであるが、外でトルコ料理を買ってきて食べる、バングラディッシュ出身のシャムスはなべでお米を炊く、私は、といえばとりあえずジェノベーゼを使い野菜を炒めてパスタ、またはトマト味の野菜炒めなど。お米はモンテネグロでも生産しているぐらいで、インディカ米じゃない普通のお米も手に入る、もちろん日本のコシヒカリとは比べようもないが。
 なんとなくいろんな話をしながら食事、お茶。文化の違いは食事にも習慣にもよく反映されているのでおかしい。
 フレンチフライはベルギー発祥、日本人がお米にこだわるのと同様、フレンチフライの揚げ方にもこだわりがあり、ベルギー流がある、門外不出らしいが、教えてもらった。
 プリングルスもベルギー、ハンバーガーはバルカン半島発祥。アメリカ文化と思っていたものが実はそうでないことが発覚、
 もちろん、チョコレートとビールについても一方ならぬ想いがあるようで、話させるとかなり面白い。

Sunday, May 21, 2006

Abstract-4; Inceptional Conference


4/6 調印セレモニー
 MuSPP(Municipal Spatial Planning Support Programme in Kosovo;意訳すると自治体の都市計画策定支援プログラムin コソボ、となるのでしょうか。)に関する会議がグランドホテル2階の会議室で開催される。赤ジュータンの立派な部屋で厳かな会議であるが、2度も停電してパワーポイントが止まる。2度目は暗いなか議論が続行(しばらくすると予備電源に切り替わり回復)。

参加者;
・環境都市計画大臣(コソボ中央政府)
・自治大臣(コソボ中央政府)
・スウェーデン政府系組織代表(SIDA;資金援助)
・オランダ政府系組織代表(前プログラム資金援助)
・UN-HABITAT(テクニカル・人材サポート)
・6自治体CEO,都市計画部局ディレクター
(ジラン・フェリザイ・プリズレン・ジャコバ・ペーヤ・ミトロビッツァ)※ミトロビッツァについてはアルバニア人が中心となる南に自治体があり、北部セルビア人居住エリアはUNMIKが支部を設置し自治を管轄しているので双方の代表者が出席)

 会議は同時通訳方式、アルバニア語、セルビア語、英語の3言語で会議が進められる。3言語への翻訳はドキュメントを含めてすべてに適用されるルールである。特に地方自治体の担当者は英語が使えないので、翻訳がないと非常に不便な生活となる。
 翻訳が義務であるが、自治体では手抜きしていることもあるので苦心する。ウエブページやドキュメントなど、アルバニア語と英語バージョンを比較すると、英語バージョンが手抜きしてあることしばしばなので、原則アルバニアバージョンと双方を見比べる必要がある、と感じる。

 支援プログラムの目的、プランニングの重要性、HABITAT戦略など一通りの説明と調印セレモニー。残念ながらミトロビッツァについてはその場での調印とはならず、いったん持ち帰る(最終的に調印された)。大臣の参加と調印により、各自治体の動きが良くなり、自治体内のHABITAT支所も早急に用意されると考えられる。

UNMIK(国連コソボ暫定統治機構) http://www.unmikonline.org/
環境都市計画省  http://www.ks-gov.net/mmph/index.htm
SIDA http://sida.se/sida/jsp/sida.jsp?d=121&language=en_US


4/7 初-フェリザイ自治体訪問
 プリシュティナオフィスに集合、ローカルスタッフでフェリザイ担当のアイダとともにフェリザイに向かう。先々はUNカーが各自治体担当に支給されるが、それまでは暫定的に公共交通機関を使う。
 ミニバスの5番路線で市南部のバスセンター付近へ。プリシュティナ市外は大量のミニバスが走っている。これは個人営業のワゴン車、かなり古い。代金はタイミングを見計らって運転手に渡す。路線によるが大体0.3~0.4ユーロでどこまででも乗ることができる。最大運転手の横に2人、真中の座席に4人、後部座席に4人。車内人口密度が高い。地元の人の足として使われておりバス停での乗降が基本であるが、プリシュティナ市外になると、家の前などかなりフレキシブルに停まるし、路上で手を上げれば停まってくれる。一人でも乗れば運転手が直接儲かるためだと想像できる。
 バスセンター付近からフェリザイ行きのバスに乗り換える。大型バスが定期的に運行しており、その時間の間をぬって民間のミニバスが運行、運転手が行き先を叫びながら歩き回っている。今日はミニバスを選ぶ。
 30分程してフェリザイに到着。駅があるが、まだ運行再開したばかりで2本/日。歩行者スペースであるかのようにたくさんの人が線路敷きを往来する。自治体は駅の直近、駅前のアスファルトで舗装されたスクエアの脇にある。
 都市部局に挨拶、一部屋HABITAT支所として用意されているが、環境はいまいち。環境担当ディレクターの部屋だったにしては、この環境がいかがなものか。
 とりあえず挨拶だけ済ませて今日の業務を終える。来週には設備も整いはじめるだろう、プリシュティナのオフィスとフェリザイを行ったり来たりする生活が始まる。
 アイダは環境の悪さに眉をひそめる、これでは仕事できないとHABITATにクレーム。

Thursday, May 18, 2006

Abstract-3; Target Municipality

4/3  初出勤
 プリシュティナに到着した夜、UNDPドライバーにスケジュールを確認。明日、関係者から連絡があるからそれを待てとのこと。アバウトな指示、ヨーロッパ文化圏の気候を感じる。
 仕方がないので朝7時に起床、着替えてスタンバイ。8時に電話があり、9時にピックアップされてUNDP Kosovoに。
 契約書にサイン、万が一の場合、保険金を誰に分配するか、などの書類を作成。簡単なブリーフィングを受ける。仮住居としてとりあえずグランドホテルに滞在しているが割高(60ユーロ/day)なので、安価な宿舎に変更した方が良いとのこと。仮住まい手当が支給されるので問題ないが、UNーHABITATの国際スタッフがよく使うゲストハウスに早々に引っ越すことにする(15ユーロ/day)。
 ブリーフィング後、UNDPからUNーHABITATへ送迎される。交通量の多い道路で渋滞、建設現場が多く仮囲いなしで工事が行われている。砂埃がひどい。
 電話でインタビューを受けた2人の女性、エリザベットとクリスティーナに会う。一通りの挨拶を済ませて、プリシュティナ市の情勢について確認する。どうやら治安の問題はないようである。
 もう一人、細かな事務手続きやアポイントをしてくれたアシスタントの男性、アルタン、メールでも親切に対応してくれるのでとても助かる。
 先に到着していた国際プランナーのエリック、プランニングチームのボスであるフランクに会う、二人ともベルギー人、3人で昼ご飯を食べにでる。これがコソボ初のまともな食事である。
 肉類が多いものの、トルコの影響を受けているので、ケバブやハンバーガーなどの受け入れやすい食べ物も多い。ショペサラダというチーズのかかったサラダが一般的らしいのでケバブとともに注文する、食事はおいしい、問題なし。
 夕方、アルタンの車でグランドホテルからゲストハウスへ引っ越す。
 

 4/4 初ミーティング
 本日、ほとんどの国際プランナーが揃う。UN-HABITATが計画策定支援をするのは中心都市であるプリシュティナに次ぐ6都市である。
 UN-HABITAT Kosovoのチームはおおむね次の構成である。
 国際プランナー以外は既に、プランニングトレーニングプログラムに参加しており、ワークショップなどの社会参加手法についてのスキルを取得している。

~UN-HABITAT Kosovoの構成~
○チーフ(エリザベット)
○社会学チーフ(クリスティーナ ※市民参加、ジェンダー問題など)
○プランニングチーフ(フランク)
 ・プランニングアドバイザー(国際プランナー)
 ・トランスポートプランニングアドバイザー(国際プランナー)
 ・プランニングスタッフ(地元プランナー)
 ・GISスタッフ(地元プランナー)
○事務など
 ・メディア部門(地元スタッフ)
 ・事務・運転手など(地元スタッフ)

~支援自治体~
○Gjakove(ジャコバ)…南西部に位置し、プリシュティナより車で1時間半。、緑の多い地域で農業が盛んな地域。NATOの首都空爆後アルバニア人難民が帰国して、大多数のセルビア人住居を焼き払ってしまったため、アルバニア人による新たな住居が建設された。市街化して間もない都市。
○Ferizaj(フェリザイ)…プリシュティナ南部に位置し、車で30分、コソボ第二の開発圧力の高い地域。マケドニアのSkopje(スコピエ)に繋がる幹線道路が市街地に隣接しており開発ポテンシャルが高い。都市基盤も整っておらず幹線道路沿道に無許可で開発が進んでいる。都市郊外にはBonstill(米軍キャンプ)がある。
○Gjilan(ジラン)…プリシュティナ南部に位置し、車で30分。フェリザイの東に位置する都市。中心部にロマ(ジプシー)のバラック(Informal Settlement)がある。開発圧力もさほどないが市街地のインフラストラクチャーが十分に整備されていない。
○Prizren(プリズレン)…コソボ南部、過去には各国の交通の要所とされ、文明化が進んだ地域。オスマントルコとの戦争では負けたものの、聖戦地とされている。歴史的でもっとも美しい都市。民族的アイデンティティーが非常に強い。 民族的問題があるため、KFORの警備も厳しい。
○Peja(ペーヤ)…プリシュティナ西部、車で1時間半。自然が美しく山々が後背地に広がる。渓谷もありハイキングなどのレジャーアクティビティに良い地域。スキーステーションがあり、冬季にはスキーも楽しめるが、スキー場はほぼ運営されていないといって良い。自分で山に登り滑る、という感じのようである。市街地はジャコバと同じくセルビア人住居が大量に破壊、焼き払われ、新たな市街地が作られている。
Mitrovica(ミトロビッッア)…コソボでもっとも多くセルビア人が居住する地域で、川を挟んで北部にセルビア人、南部にアルバニア人が住む。自治体は南部にあるが、暫定的に北部にUNMIKが暫定自治体を設置している。川に架かる橋は、民族紛争の象徴的なモニュメントとして各メディアによく取り上げられる。

 4/5 スタッフミーティング
 昨日に引き続きミーティング。ほぼフルメンバーでHABITAT会議室に集合。今後の進め方や各自治体とのアポイントの状況、どのように現地オフィスが用意されるのか説明がある。明日調印式が行われるとのことであるが、一通りの状況説明と合意が得られているようとのこと。
 各自治体の建物の中にUN-HABITATの出先オフィスが用意されることになる。プリシュティナから遠い自治体は、そのほとんどの業務を自治体の出先オフィスで行うこととなる。
 各自治体1名の国際プランナーが責任をもち、ローカルプランナーも1名同行する。
 新たに加わった国際プランナーと担当自治体は少なからず経歴が影響しているようである。政治的緊張状態にあるミトロビッツアについては、担当を決めずチーム全体で対応することになる。
 
~国際プランニングアドバイザーの専門と担当都市~
全体統括…担当フランク 参加のプランニング、キャパシティビルディング専門
○ジャコバ…担当:シャムス スクゥォッター(不法占拠居住)についての専門経験あり。
○フェリザイ…担当:マサユキ 東京でプランニング実務を経験、日英の居住環境誘導に関する研究でPh.D。
○ジラン…担当;エリック 1999年空爆直後、コソボ入りしてスワリカ村で住宅復興(建設)の指揮を取る。6年ぶりにコソボに戻る。
○プリズレン…担当:シアン 歴史的建築物保存、世界遺産地区における計画策定経験あり。
○ペーヤ…担当:コバ コソボでのプランニング経験あり。自然保護、農村計画が専門。
○ミトロビッツア…全員で担当

Tuesday, May 16, 2006

Abstract-2; The day arrived at Pristina


 2006.4.2、成田空港を発ち12時間のフライトでウイーンは向かう。3時間の乗り継ぎ時間があり、その後プリシュティナ空港行きの飛行機に乗る。搭乗時刻が20時頃、現地到着が22時過ぎ。日本で得た外務省の海外危険情報では「渡航を控える地域」に該当するにもかかわらず到着は夜中となる。
 現状では盗難や空き巣、自宅庭にあった地雷を子供が踏んで負傷するなど、あまり安心できる状況にないようである。ガイドブック等でも民間人が行くところではない、との解説。
 にもかかわらず、到着が夜中とは、少々不親切な気もするが、多分乗り継ぎで経由地で宿泊しないで済むフライトプランを選んでくれたのでしょう。
 
 青山UNDPでのブリーフィングでは、情勢が不安定な地域への車での移動を控えることや1時間以上の移動は書類を提出すること、メディア対応、現地での住居、到着からしばらく仮に滞在することについて一般的なレクチャーを受ける。さすがに現地事情は把握しかねるようで、現地スタッフがサポートしてくれるとのことであったが、現地からのメールでは空港に着けば誰か迎えにきてくれるとのこと。誰が、どのように迎えに来る、連絡手段など一切、情報はない。
 
 ウイーン空港でボーディングの列にならぶ、背も高く体格のよい外国人、UNMIKのパスを持っている人が大半で、なかにはセキュリティガードらしき、いかにも軍人まで乗り込む。
 搭乗前にもチェックを受ける、ミッションエリア入りの緊張感がある。150人乗り程度の小型機に50人ほどの乗客、暗い中にぽつんとある空港に到着。パスポートコントロールをでるとすぐに空港外となるシンプルな建物、いきなり外に放り出されたが、誰がいるのか。
 
 UNDPのロゴが大きく書かれてあるポスターを持つ男性がいる。
 
 開口一番、「コニチワー!ハジメマシテー」と満面の笑みの男性。ジーコ監督に似た現地スタッフ。暗い空港、車に乗って万が一拉致のたぐいなら身包み剥がされるなと一人思う。いかにも欧州の国連スタッフらしき人がきてくれれば安心するのだけれど。外務省の過剰情報に疑心暗鬼になる。
 
 なんとか市街地の明かりが見える、無事に安堵。中心部のホテルGrand Hotel Pristinaに到着。空気が埃っぽく、街は暗いがとにかく疲労困憊で考える気力なし。
 しかしインターネットも繋がる、国際電話も。、シャワーのお湯がでないにもかかわらず。
 真夜中に危険と言われる地域で、いきなり外食する気にもなれず、ウイーンで買っておいたチョコとパンをかじって寝る。
 

Monday, May 15, 2006

Abstract-1; P11Form

Intro.
 UN-HABITAT Kosovo(国連人間居住計画) でInternational Spatial Planning Advisor(国際都市計画アドバイザー)として働くことになった。
 
 大学から離れる際にも国連へのエントリーを考えたが、プランナーとして実務経験を積むために都市計画コンサルタントに従事、約6年が経過。 
 再度、研究職公募にエントリー、と同時に国連の都市計画に関連する機関(UNDP,UN-HABITAT etc.)で見つけた公募に目が止まる。いままでの経験をフルに生かせるミッションかもしれない、が、コソボってどこだったか。NATOが空爆した地域だった記憶があるが、レビューが必要である。

 ~コソボ国連暫定統治機構(United Nation Mission in Kosovo;UNMIK)が暫定統治するコソボ自治州の主要都市プリシュティナ市では、1999年の民族紛争後、特に雇用機会を求めて、大量の難民が都市に流入している。都市は開発圧力に晒されているものの、適切なプランニングが実践されていない。2005年には新たな都市計画法が制定され、コソボおよび各自治体レベルのディベロップメントプラン、アーバンディベロップメントプランや詳細プランの策定が急がれている。求む、ヨーロッパのプランニング知識のある専門家~

 国連の共通履歴フォーム(P11form)を作成、氏名国籍、家族構成(結婚・離婚の有無)、学歴、職歴と担当プロジェクトの解説、ポストと部下の数、収入、転職した場合はその理由、学会活動と論文、使える言語、人物照会が可能な者の連絡先など、一読で人となりがわかる事細かなフォームとなっている。しかし写真の添付が求められない。人種やジェンダーに細かい配慮が見られるのが国連らしい。
 P11formを送付、書類審査通過後、電話インタビューのアポイントが来る。
 
 電話にてインタビュー、経験実績、専門について、ヨーロッパのプランニングのポイント、バルカン半島のプランニングは大都市東京とは全く異なるがどうか?、EUのプランニングポリシーについて、参加のプランニング手法といった専門的な内容。ジェンダーに対する認識。プライベートについて、人となりについて、採用したくなるようアピールせよとのこと。日常生活で英語使っていなかったので、伝ええるべきことの半分も伝えられていない。

 突然、採用が決まった。家族と相談し、きっと縁があったのだろう、行くことに決める。

 会社の年度末報告書作成、引継ぎ、お世話になった方々へのご挨拶とご報告、激励・送別会、長く暮らした横浜のアパートの引き払いと引越し。1ヶ月の猶予期間フル稼働で4/2に日本を発つ。